今回の集団的自衛権をめぐる議論では、テレビや新聞において、憲法学者の方がよく『立憲主義』という言葉を用いて批判しています。
でも、『立憲主義』ってどういうものなのか、理解されている方はあまり多くないでしょう(知らないのは当然でしょう)。
そこで、昨日宣言したとおり、今回は、立憲主義について簡単に解説していきます。
ちなみに、集団的自衛権を容認することについて、良い、悪い、という趣旨の記事ではありませんのでご注意ください。
立憲主義とは何か
簡単にいえば、政府の権限を制限して、国民の権利や自由を守ろうとするものです。
権力を持っている人が何でもかんでも自由にできるとなると、国民の権利や自由も制限なしに侵害されるおそれがあります。
日本は民主主義社会ではありますが、たとえば、国会議員が選挙で選ばれた(国民から付託を受けた)からといって、自分に反対する人たちを粛清するなんてことをして良いわけがありません。
権力者が、その強大な権力を背景に、たびたび国民の権利・自由が侵害されてきたという歴史的経緯から、立憲主義(政府の権力を制限して国民の権利・自由を守るというもの)が勝ち取られたわけです。
立憲主義は非常に重視されている
この立憲主義というのは、憲法学において非常に重要視されています。
考え方の一つという程度の位置づけではなく、憲法というものの根幹をなすレベルです。
たとえば、イギリスには、『イギリス憲法』というような憲法典はありません。
じゃあ、イギリスは憲法を持っていない国家とされているのでしょうか。
いいえ、そんなことはありません。
様々な法律や判例によって、政府や国王の権力は制限され、国民の権利や自由を守ろうとしています。
単に、憲法典という形をとっていないだけです。
こういった、立憲主義を採用していることをもって、イギリスには憲法がある、とされています。
このように、憲法は、憲法典(日本でいえば日本国憲法)がある、ということが重要なのではなく、立憲主義的意味の憲法があるかどうかが重要とされています。
何で、解釈改憲は問題があるの?
今回の集団的自衛権を容認する方向での解釈改憲を受けて(現段階では、解釈改憲を検討するという段階ですが)、憲法学者は立憲主義から問題がある、やるなら、憲法改正にせよ、と批判しています。
これは何故なんでしょうか。
答えは、立憲主義がないがにしろなるおそれがある、と考えているからでしょう。
前述したように、立憲主義的意味の憲法は、政府の権力を制限して、国民の権利・自由を守るものです。
これを変えたいなら、きちんと憲法改正の手続きを踏まなければなりません。
それにもかかわらず、憲法改正という手続きを回避して、解釈でもって、憲法の権力制限を回避しようとしている、と考えられているのでしょう。
こういった解釈改憲が頻繁に行われれば、憲法が存在する意味がなくなってしまいます。
憲法は政府の権力を制限するためにあるはずなのに、政府の解釈によって、制限がはずされてしまえば、立憲主義が崩壊するのではないか、と考えられているのでしょう。
裁判所は何やってるの?
最高裁は憲法の最終解釈者である、とされています。
内閣や国会が憲法をどのように解釈しようとも、最高裁が「その解釈は違う」といえば、最高裁の判断に従わなくてはいけません。
そうすると、今回、解釈改憲が行われても、最終的には裁判所が判断してくれるから安心できるのでしょうか。
ところがどっこい、実は、こういった大きな問題については、裁判所は判断を回避する傾向にあります。
統治行為論といって、国家統治の基本に関するような高度に政治性を有する行為については、裁判所は判断しない、というものがその一つです。
集団的自衛権は、日米同盟へも影響するでしょう。
裁判所は、日米同盟への影響を懸念して、憲法判断を回避するか、現状に影響を及ぼさない形での判断しかしない可能性が高いのではないでしょうか。
あとがき
憲法学者の人たちが、『立憲主義』というよくわからない単語を持ち出して、解釈改憲に疑問を示すのはこのような考えがあるのでしょう。
ここでしたのは、簡単な解説ですので、色々と細かな議論を省略しています(分かりやすさ重視で書いていますので詳しい方には疑問に思われる方もいるでしょう)。
当然ながら、憲法学者全員が、立憲主義に反すると考えているわけではありません。集団的自衛権を容認しても立憲主義は害されない、と考える方もいます。
気になった方は、ちゃんと憲法学者の書かれた書籍を読んでみてください(かなり難解でしょうけど)。
コメントはこちら